『或る特攻隊指揮官の戦中・戦後。林冨士夫大尉の場合』
               ――追録篇その(四)――前編


 戦後五十年以上を過ぎ、二十一世紀に入ったころ、戦争中の日本
海軍についての新しい調査結果が相次いで発表されます。
 あの「戦艦ミズーリに突入した零戦」もその一つですが、ほぼ同
じ時期、カリフォルニアで法律事務所を営む平義克己(ひらぎかつ
み)という人が、"我 敵艦に突入す。駆逐艦キッドとある特攻、
五七年目の真実"を出版しました。
 この本は、特攻機の襲撃を受けた駆逐艦キッドの乗員関係者の依
頼を受け、平義氏が日本でその特攻機の乗員を探し当てる過程をま
とめたもので、ゼロの状態から次第に真相に迫るその推理の旅路は
上質の推理小説に近いものがあります。
(結果的にその特攻機は、予備学生十三期の矢口重寿中尉《第五建
武隊分隊長》であるのが確認されました。(後述)


 平義氏は、もともと日本海軍についての知識に乏しく、しかも当
初接触した海軍関係者や防衛庁の対応が冷淡であったため、調査が
難航、窮余の果てに「海空会」に電話して海兵七十三期の深田秀明
を知り、ようやく手がかりを得るのに成功するのです。
 平義が持参した写真によって、キッドに突入した特攻機が深田の
熟知する彗星でないことが判明、深田のアドバイスによって、新た
に紹介されたのが七十一期の林冨士夫大尉でした。 (下に続く)

  林は、当日(四月十一日)の全海軍特攻機の出動状況と、写真の
 機体、搭載されている機銃、エンジンのネームプレートなどから、
 その機が零戦の最新型の五二型丙であることを特定、また、当日の
 各隊の出動状況によって、その時間、その地域での特攻機として、
 第五建武隊分隊長矢口中尉に辿りついたのです。
  これは戦艦ミズーリの場合と全く同じ手法であって、二人の著者
 の執念はもちろんのこと、すでに八十才をこえた老大尉(元)の情
 熱と記憶力と分析力は驚異的なものがあります。
  その一方で意外なのは、これだけの重要人物が戦後の特攻研究の
 場に、ほとんど登場してこなかったという事実です。


  従来の海軍関係、特攻関係の著書・文献にもほとんど登場しませ
 ん。証人や参考人として記載されることも稀で、わずかに「神雷部
 隊」関係の著書(後述)に名を残すのみです。
  ようやくこの二つの著書によって、彼が終始日本海軍の特攻作戦
 の中心に在り、しかも実戦部隊の指揮官として、最も優れた歴史の
 証言者であるのが判明しました。
  私たちは、林大尉が、その人生の最後の時期に、貴重な証言を残
 してくれたのに感謝しなければなりません。


  林大尉が所属していた「神雷部隊」は、正式名は七二一航空隊、
 あの人間爆弾と称せられた"桜花"を爆撃機の一式陸攻(陸上攻撃
 機、搭乗員七名)に搭載して発進させるという、特攻作戦の中でも
 最も苛烈な任務を課せられた部隊です。      (下に続く)

  部隊の編成準備が開始されたのは、第一次神風特攻隊が結成され
 た昭和十九年十月二十日より約一ヶ月早く、むしろこちらの発想が
 先行していました。
  秘かに集められた隊員の資格は、一人子、長男、妻子ある者を除
 き、すべて志願によるというもので、それでも充分な人数が確保で
 きたとされます。(極限の特攻機"桜花" 内藤初穂著)
  司令は戦闘機隊出身の岡村基春大佐、飛行長岩城邦広少佐。
 隊は三隊に分かれ、一式陸攻隊の隊長は野中五郎少佐、桜花隊長
 は柳沢八郎少佐とし、これを四分隊に編成、平野晃大尉(海兵六九
 期)、三橋謙太郎、湯野川守正、林の三中尉(のち大尉、いずれも
 七一期)が担当。戦闘機隊は総隊長に神崎国雄大尉(六八期)、分
 隊長には漆原睦夫大尉(七〇期)が専任で、あとは逐次増員の予定
 です。いずれも若手の中の実力者を揃えました。


  ここで異変が起こります。柳沢少佐が"桜花"に搭乗して先頭で
 突入する案を出したのに、岡村司令が反対したのです。
  二人の意見はついに一致せず、柳沢少佐は援護戦闘機隊総隊長に
 回ることになります。この岡村司令の姿勢は、海軍特攻隊の歴史を
 語る場合、重要な意味を持つものです。(後述)。


  神雷部隊はついにフィリピン沖海戦に参加することができません
 でした。与えられた条件が過酷過ぎてクリアできなかったのです。
  まず、"桜花"自体が問題でした。       (下に続く)

  一発で敵空母を撃沈するため、一・二トンの爆弾を搭載すること
 となり、自重〇・四四トン、全備重量は二・一四トンに達する"桜
 花"をどのようにして目標まで推進するかです。
  この時期、日本軍はドイツで開発されたV1号、V2号などの長
 距離ロケットやジェット・エンジンなどの知識を持ち、自力の開発
 も進めていました。しかし、まだ"桜花"に適用するまでには至っ
 ていません。
 結局は火薬による噴射推進とすることになり、それでも時速六四
 八キロとグラマンを上回り、航続距離も高度の十倍(高度四千mで
 約四十キロ)の確保に成功し、十一月末ころにはおよそ百機が生産
 され、うち五十機が完成したばかりの新鋭空母信濃でフィリピンに
 輸送される予定となります。


  ところが、再び不運がおとずれ、十一月二十九日、伊豆七島付近
 で米潜水艦の魚雷を受け沈没。"桜花"五十機も海没します。


  図上演習で最も問題視されたのは、一式陸攻の鈍重さと防御力の
 脆弱さです。
  もともと時速三五〇キロ程度の一式陸攻が、"桜花"を載せた場合
 には、時速三〇〇キロの確保も困難と予想されますし、総体として
 日本の爆撃機は防御力に弱点があります。
  そこで作戦成功のためには、援護戦闘機の充分な確保が絶対に必
 要となります。実は、この点が最大の問題点であり、最後には神雷
 部隊構想の方針転換という結果となるのです。   (下に続く)

  昭和二十年三月二十一日。この日の初出撃は惨憺たる結果に終わ
 りました。
  南九州各地の基地で好機を窺っていた神雷部隊は、都井岬南方の
 米機動部隊を目標に、部隊各機を発進させます。
  陸攻十八機。うち三機は野中少佐と甲斐、西原、佐久間大尉の三
 人の分隊長を乗せ、残りの十五機に三橋謙太郎分隊長以下十五名の
 "桜花"隊員が分乗します。
  援護戦闘機は途中の故障脱落も多く、最後まで任に就いたのは予
 定の七十二機の半分にも満たない三十機。これで援護と空中戦を担
 うのは至難の技で、結局はこれが作戦の致命傷となりました。
  いち早くレーダーで日本機の接近を察知した米軍は、グラマンF
 6F四十八機で待ち伏せし、日本機の包囲殲滅を図ります。
  攻撃はまず鈍重な陸攻に集中し、予てから懸念した通り、防御力
 のない陸攻は吊るしてある"桜花"もろとも、火を吹いて撃墜され
 てゆきます。陸攻、"桜花"の搭乗員一五〇名戦死。
  陸攻の搭乗員が一機七名以上なのが人的損失を増大させました。
  援護戦闘機隊は分隊長の漆山睦夫大尉(七〇期)を始め、十機を
 喪失して四散壊滅、九州・四国の各基地に辛うじて退避します。


  戦後、野中少佐がかねてから語った言葉として、「この槍、使い
 難し」というのと、出撃前に岩城少佐に遺したとされる「飛行長、
 湊川だよ」との言に、悲痛な思いが籠められています。(下に続く)

  海軍首脳部、とくに九州方面の第五航空艦隊司令長官宇垣中将は
 桜花神雷部隊に大きな期待を寄せすぎていました。
  劣勢兵力を以て米機動部隊に対抗するには特攻戦法しかないこと
 がはっきりした以上、次には特攻機の爆弾の重量を増大して、一発
 で敵艦を撃沈するしかないという論法です。


  ところが当時の搭載可能爆弾の重量は、零戦二五〇キロ、彗星五
 〇〇キロ、天山・銀河八〇〇キロが限度とされており、これ以上に
 爆弾重量を増やす"桜花"方式が極めて魅力的に見えたのです。
  これに対して実行部隊では、当初から空中戦能力の劣弱な陸攻が
 敵戦闘機の恰好な標的となるのを恐れており、最低でも七十機以上
 の護衛戦闘機の確保を絶対条件と考えていました。


  記録では、護衛戦闘機が三十機となった段階で、作戦中止の具申
 があったとされますが、これは宇垣中将に却下されたとも、すでに
 発進済みで間に合わなかったともされています。


    第一回攻撃の破綻をうけ、岡村司令は直ちに方針転換を決意、部
 隊の再編成に着手します。陸攻を中心とする大編隊攻撃を断念し、
 少数機の奇襲攻撃と、護衛戦闘機隊の一部の爆戦隊への転換です。
  この新方式について、首脳部がどのような反応を示したか、記録
 は一切残っていませんが、おそらくは、作戦の失敗の衝撃が大きく
 て、黙認するしかなかったものと思われます。   (下に続く)

  再編成は、四人の分隊長のうち、戦死した三橋大尉と、この時期
 不在だったと思われる平野大尉を除く二人の分隊長、すなわち湯野
 川・林の二人が中心となり、まず部下たちを説得することから始め
 られました。
  というのは、部下たちの中にも、一発撃沈の"桜花"に期待して
 志願した者があり、その意向を無視できなかったからです。
  最終的には十名ばかりが桜花隊に残り、残りの大半は爆戦隊に移
 行することになりました。


    ここで極めて重要な事実に気付かれる方がおられるでしょう。
  岡村司令が四人の分隊長のうち、三橋大尉だけに出撃を命じ、あ
 との三人を温存したのはなぜかということと、基本方針の転換が極
 めて迅速に行われた理由は何かという疑問です。
  前者については、たまたま林大尉が高熱で入院していたのを除く
 と、従来の諸資料では明快な説明はされていません。
  第二回、第三回と継続して出撃を企図していたとも考えられます
 し、失敗を予測して指揮官の温存を図った可能性もあり、どちらと
 も結論できるだけの決定的な資料は残っていないのです。


  ただ岡村司令の「思想」を推察できる証言は存在しています。
 まず前掲内藤氏の著書の一九九九年の改定文庫版での林の証言。
  三月三十一日の桜花隊出動命令に、突入隊長として林が自分の名
 を書いて提出したところ、岡村は即座に抹消します。 (下に続く)

  この時、岡村は、
 「君は最後だ。その時はわしもゆく」と明言しています。
  またこの後の平義氏前掲書でも、林は平義の質問に対し、
 「他の部隊はどうか知りませんが、我々の隊では死ぬことが目的で
 はなかったのです。少なくとも爆戦では」
 と答えて、なおも続く平義の疑問には、
 「我々は隊員に普段から、敵戦闘機に出会ったら、爆弾を捨てて空
 戦をやって帰ってこい。目的は死ぬことではない、戦果をあげるこ
 とだと教えていました。」と断言します。
  また林大尉によると、岡村司令の口癖は、
 「遠くからでもこれなら当たると思ったら、爆弾を当てて帰ってこ
 い。何遍でも行ってもらう」でした。


  平義氏は、彼が他の書物で読んだステレオタイプの特攻観、たと
 えば死が自己目的化し、ある隊長が「特攻の目的は戦果にあるので
 はない。死ぬことにあるのだ」と部下を怒鳴りつけた例や、エンジ
 ントラブルで戻ってきた隊員を、臆病者と罵った例をあげ、余りに
 も岡村の隊との違いにおどろき、特攻作戦に統率や一貫性がかけて
 いると批判しています。


  これは、氏が敷島隊の関行男大尉が三度も攻撃を断念し、ついに
 四度目に突入を成功させた例や、深堀大尉がその遺書で血気に逸る
 若い隊員たちを戒めた例などを知る機会がなかったからで、少なく
 とも海軍では岡村の「思想」が正統派であるのに疑問の余地はあり
 ません。                    (下に続く)

  実は、あのステレオタイプの特攻観に引用されている実例に関し
 ては、その真実性は極めて疑わしく、当時は一機の航空機、一人の
 搭乗員も無駄にはできない情勢下にあり、指揮官側が敢えて貴重な
 人材の「死」と、航空機の無意味な喪失を強制するなどは、不合理
 でもあり、不自然でもあって、安易に認めることはできません。
  ことに、実戦経験豊富な指揮官の払底は危機的状況にあり、その
 ため予備学生の大量募集が行われ、その養成が急がれていたのです
 が、彼らだけでは実戦で鍛えられた下士官たちを掌握するのは困難
 です。岡村司令としては、これ以上歴戦の指揮官の一人も失いたく
 ないという本心だったと思われます。
  こうして林大尉は「死」を禁じられました。そして先輩の平野、
 同僚の湯野川大尉とともに、桜花神雷部隊の再建という困難極まる
 課題の解決に挑むことになります。


  ここで林は、"奇策"を案出し、自ら危険な実験台となるのです
 が、従来充分な検証が行われていない分野なので、改めて後編にお
 いて詳述したいと思います。


 (注:追録篇その(一)で「桜花」部隊の初出動の状況説明が不充分
 かつ不正確でした。今回のが正しいので訂正させていただきます。)

日本史随想目次に戻る
トップページに戻る