「神風特別攻撃隊」  結成から出撃へ


 昭和十九年十月十九日深夜、大西中将はついに航空機による体当
り攻撃作戦の採用を決断、特別攻撃隊の結成を命じます。
 名称は神風(しんぷう)特別攻撃隊、総指揮官は海兵七十期生の
海軍大尉関行男。九月二十五日付で台湾の飛行教官から急遽赴任し
たばかりでした。
 彼の指揮下、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の四隊が編成され
ます。これらの隊名は、本居宣長の、
 敷島の大和ごころを人とはば 朝日に匂ふ山桜花
の和歌からの命名です。
 使用機は零戦。機体重量二トンに満たない零戦に、負荷能力の限
界である二五○キロ爆弾を搭載し、爆弾もろとも体当たり攻撃を敢
行するという究極の作戦です。
 体当たり攻撃隊は関隊長以下十三名。援護と報告要員の直掩隊は
十名で総員二十三名。大西中将の命により、すべて志願者の中から
選んで指名されました。


 戦後、指名に至るまでの過程で、強制があったとか、半強制であ
ったなどの主張が時々みられますが、これらはすべて憶測や想像を
根拠としていて、記録に残る実態に反するものです。
 当時の一航艦の残存搭乗員は、甲飛十期生の予科練を主体とし、
少数の海兵、予備学生出身者が指揮官として配属されていました。
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  大西中将の意向を受けた玉井副長(中佐)が十九日夜、部下の甲
 飛十期生全員を集めて特攻隊結成を宣言したとき、出席者全員が志
 願に同意、それだけで二十四名を越えていたことについては、同席
 者の確かな証言があります(金子敏夫、神風特攻の記録)。
  彼らはいずれも、自ら志願して最も戦死の確率の高い搭乗員を選
 んだ人たちであって、ここにきて死を恐れるなどあり得るはずもな
 かったのです。
  もし彼らに不安なり躊躇があったとすれば、それは死そのものに
 対してではなく、果たして有効な作戦かどうかという不安であった
 ものと思われます。


  この不安を除くため、参謀たちや関隊長を中心に最終の作戦打合
 せが行われ、ほぼ次のような作戦が決定されたとみられます。


 一、死を無駄にしないため、突入まで決して目を閉じないことを第
   一とする。
 二、必ずしも撃沈を目的としないこと。たとえ数日でも戦力を奪う
   だけの打撃を与えれば有効である。
 三、突入箇所は格納庫から甲板に通ずる昇降機を最善とする。ここ
   を破壊すれば、艦載機は実際上使用不可能となり、空母は単なる
   浮かぶ倉庫でしかなくなる。などなど。
  これらはその後、多少の修正を行ってほぼそのまま明文化され、
 記録に残されています。               (下に続く)

  関大尉がこの第一次の神風特別攻撃隊の総指揮官に選ばれた理由
 は明白です。
  この作戦が現地司令官である大西中将の独断で実行できる限界を
 越えたものであり、連合艦隊としての意志を明確にするためにはど
 うしても海兵出を総指揮官にする必要があったのが第一。
  当時この地区には彼以外の責任者がいなかったことが第二です。
  もう一人、菅野(かんの)という関行男と同期生の大尉がおり、
 零戦部隊の隊長である点で、艦上爆撃機の操縦員である関行男より
 も適性がありましたが、たまたま飛行機の受取りに内地に出張中の
 ため、関行男の指名となったものです。
 (なお、菅野大尉はこのあと、益々弱体化する戦闘機隊の隊長とし
 て、内地・沖縄の防衛に奔命の末、二十年六月戦死)


  関行男は、母一人、子一人の家族であり、しかもその年の五月に
 結婚したばかりであって、のちの特攻隊員選抜基準からすれば、当
 然除外対象となるべきものですから、同情心もあって、この人事に
 批判的な意見もあります。
  しかし、だからといって、彼自身が特攻作戦に批判的であったと
 する一部の見解は誤っています。マリアナ沖海戦直後の六月に、
 「もはや体当たり作戦しかない」と彼が語っていたことを指摘する
 同僚の一人による記録があります(零戦、かく戦えり!  零戦搭乗
 員会編)。                         (下に続く)

  特攻隊について、このような俗説や歪曲がしばしばみられるのは
 それが現在とはあまりにも異なった状況下に起こった出来事だから
 で、その正しい理解のためには、まず当時の状況にさかのぼって正
 確な情報を知ることが必要となります。
  ところが、情報源の一つである、当時の実情を知る人の証言につ
 いては、しばしばその信頼性に疑問が生じております。
  当時の証言者は、海兵出にせよ、予備学生、予科練出身者にせよ
 すでに戦後何十年も過ぎて、白髪がいや増し、それもしだいに薄く
 なり、やがて記憶も定かではなくなっています。同時に、生き方や
 考え方も変わってしまっています。
  同期生が集まれば、当時の精神をほぼ維持できているのは二割程
 度、まったく批判的な考えになっているのが、約一割。残りの七割
 がその中間に分布しているというのが、通常の姿でしょう。
  その一割の者に誘導尋問をすれば、どのような結論も可能であっ
 て、事実、特攻隊員の選抜が強制的であったなどの論者について、
 その出典資料を追跡してゆくと、ごく少数の特定人物に行き当たる
 ことになるのです。


  当時の状況の正しい理解のためには、まず当時の戦況について、
 これまで示してきた程度の事実認識は最小限必要です。これすら満
 たしていない意見の横行は遺憾としか言いようがありません。
                              (下に続く)

  さらに、当時の特攻隊員の心境については、本人の遺書、日記、
 書簡の類に勝る資料はありません。その多くは、知覧、鹿屋、など
 かつての特攻隊基地はじめ、各地の記念館や江田島の教育参考館な
 どに保管・公開されており、かつ、「雲ながるる果てに」のような
 貴重な出版物も刊行されていますから、どのような主張をするにし
 ても、まずそこから出発するのが責任のある態度でしょう。
  これからの本稿の立場もその線に沿うものであります。


    十月二十日、午前十時。二十三名の隊員が本部前に整列。
  大西中将から、正式に神風(しんぷう)特別攻撃隊の結成を告知
 され、簡単な激励の辞ののち、中将が全員に握手。ここに第一次の
 特攻隊が発足します。


  同日午後三時、飛行機で移動中にエンジントラブルで不時着、軽
 傷を受け遅刻した中島飛行長(少佐、海兵五十九期)は、大和隊三
 名に新たに五名を追加し、これに久納中尉を指揮官として付け、
 レイテ島に隣接したセブ島の基地に進出します。


  翌十月二十一日、関大尉の率いる敷島隊九機、上野一飛曹以下の
 朝日隊五機がルソン島のマバラカット基地より出撃するも、予定海
 域に敵影なく、天候不良の中で捜索は困難を極め、燃料も限界に達
 してついに断念。二機の直掩機だけをマバラカット基地に向かわせ
 て、関大尉以下は近くのレガスピー飛行場に不時着。翌日基地に帰
 投します。                      (下に続く)

  同日午後四時二十五分、久納中尉指揮の大和隊三機もセブ島の基
 地から出撃。久納中尉は特攻作戦第一号の戦死者となります。
  しかし彼の名は、出撃前夜、士官室の古ぼけたピアノで奏でたべ
 ートーベンのピアノ曲、ピアノ・ソナタ第十四番嬰ハ短調、一般に
 いう「月光の曲」によって、永遠に歴史に残ることとなるのです。
                                 (次回に続く)

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