『 「神風」日本陸海軍を救う』 ―――救われた幾万の命


 ここではまず大岡昇平の立場を弁護しておく必要があります。
 彼が植村少尉の真意に到達できなかったのは、最後の情報を知る
機会がなかったことと、植村父子の心境が余りにも想像を越えた境
地に在ったためで、この点を除けば、多くの作家、文化人、評論家
の中では一頭地を抜く見識であったのは確かです。


 彼は戦争末期、陸軍に招集されてフィリピン戦線で戦い、生きな
がらの地獄を見、その体験をもとに名作「野火」を著しました。
 「野火」では、過酷な戦争体験から精神に異常を来した主人公の
兵士の、『神に栄えあれ』の一言を結末としています。
 地獄を描写しながら常に「神」を求め続ける彼の姿勢は、その後
も一貫しており、一方で「花影」「武蔵野夫人」のように、薄幸の
女性に自死による救済の道を示すとともに、他方ではあの長大な力
作「レイテ戦記」で、特攻隊員に「神」の片影を暗示しているので
す。


 もちろん彼は、海軍としての神風特別攻撃隊がどのようにして誕
生し、米海軍との戦いでどれだけの戦果を挙げたかについて、充分
な知識をもってはいません。それにもかかわらず、彼は感情論では
なく、冷静に真実を見究める目を持っていました。
                                (下に続く)

  圧倒的な米海軍の攻撃にさらされて逃げまどう戦友たち。その多
 くの死を目撃してきた彼には、敢然と敵中を突破して米機動部隊に
 立ち向かって行く神風特攻隊は、まさに「神」だったのです。
  この点、多く論者が、特攻隊の功を認めたくないばかりに、海
 や山野で死の彷徨を続ける陸海幾万の兵士の状況を故意に無視して
 議論を進めるのとは、まったく対照的な立場です。


  十月二十五日、落日のあと。米機動部隊の攻撃を撃退した小沢機
 動部隊の残存艦隊は、ようやく危機を脱したことを感知します。
 昼間の艦載機による攻撃も、大きな被害なしに撃退し、撃沈され
 た僚艦の乗員の収容もほぼ終わり、伊勢・日向の二戦艦以下の残存
 十隻は、翌々日までにそれぞれ無事基地に帰還します。
  西村・志摩艦隊では、木村昌福少将の第一水雷戦隊の駆逐艦四隻
 が脱出に成功したのが大手柄で、この水雷戦隊は直後のレイテ増援
 部隊(陸軍)の護衛艦隊として活躍します。


  十月二十六日、午前八時三○分。米艦載機約八十機がサンベルナ
 ルジノ海峡を再度突破して避退中の栗田艦隊に襲来、軽巡能代が航
 行不能となり、二時間後の第二次攻撃で沈没しますが、戦艦大和な
 ど十七隻は基地帰還に成功。直ちに補修と燃料補給を開始します。
  もしも神風特攻隊の戦果がなければ、これらの艦隊はほぼ全滅は
 免れないところでした。予想される追加戦死者数約二万。
                               (下に続く)

  大岡昇平によれば、陸軍も大きな恩恵を受けていました。
  当時の日本陸軍のレイテ防衛戦力は約二万強。十万以上の大軍を
 投入してきた米軍に対抗できるはずもなく、運命の十月二十五日以
 前の段階ですでに中核の第十六師団は壊滅に近く、緊急の増援を必
 要とする状況になっていました。


  ルソン島防衛を予定し、急遽大陸の関東軍から招集された第一師
 団がレイテ増援に転進することになります。兵力一万三千。
  各地で米機動部隊の猛攻の試練を受けた日本軍は、この増援作戦
 においても約半数の損害を覚悟していたようです。
  海軍はその護衛のため、なけなしの戦力から木村少将の水雷戦隊
 に六隻を割き、レイテ島北部への輸送作戦を決行します。十一月一
 日のことです。


  結果は損害率わずかに五%。当時は奇跡としか思われなかったこ
 の現象は、戦後の検証によって、"カミカゼ"を警戒した米機動部
 隊の"引きこもり"によることが判明します。
 (米軍は十一月二十六日まで機動部隊を護衛専念とし、十一月十一
 日に予定していた東京空襲、二十六日予定の日本輸送船団壊滅計画
 をいずれも中止)


  十一月上旬の数日、まだ修理の完了していない戦艦大和が、レイ
 テ西岸方面に出動。米海軍を牽制、何の抵抗もなく悠々帰還。
                              (下に続く)

  驚くべきことに、この前後、一時的にせよ制空権は事実上日本側
 に移っていたのです。
  同時にこのことは、当初予定していた作戦計画が、意外な形で実
 現したことを示しています。
  あの囮戦法と、栗田艦隊のレイテ湾突入。連合艦隊の全滅覚悟の
 捨て身作戦の目的は、米軍の補給妨害による陸上戦支援でした。
  それが、米海軍の引きこもりによって実現してしまったのです。


  米機動部隊が護衛専門となり、輸送船団に対する護衛体制は強化
 された反面、全体の輸送効率は低下し、機動部隊の燃料・弾薬補給
 にも事欠く有り様で、本来の攻撃力は著しく削がれてしまい、短期
 間とはいうものの、陸上戦の小康状態が出現します。
  救われた多くの人命、実現した作戦目的。明らかにこれは神風特
 攻隊なくしては有り得なかった成果です。


  特攻隊を論ずる場合、だれ一人この点を語らないのは、不当とい
 うよりはむしろ不正です。十月二十五日、二十六日に出撃した四十
 機の搭乗員が幾万もの陸海日本軍兵士の命を救ったのです。
  どうしてこれを非人道的な作戦などと軽く呼ぶことができるので
 しょうか。危機に瀕した栗田艦隊や陸上部隊を見捨てて安全地帯に
 逃げ込み、全軍の崩壊を傍観するのが人道的とでもいうのでしょう
 か。その証明は、未だに誰からも聞いた記憶はありません。
                              (下に続く)

  なぜ戦後に、多くの誤った特攻論が横行したかを探ってゆくと、
 およそ三つのルートがあるようです。
  その一つは、「軍隊すべて悪」から出発したもので、理由はどう
 でも軍に関係したものは全部悪という単純な理論です。
  たとえば「きけわだつみのこえ」という戦没学生の手記を集めた
 記録集がありますが、編集責任者が認めるように、集められた多く
 の中で、戦意高揚に導く種類の原稿はすべて排除していますから、
 特攻隊に関しても否定論に近い手記が中心となるわけです。
  これを進駐軍による検閲の責任に転嫁する所論もありますが、了
 承はできません。ほぼ同時期の「雲流るる果てに」と比較すれば
 編集意識の差によるのは歴然としているからです。


  二つ目は、情報の不足と偏りです。
  米軍の情報管理は戦後も徹底しており、全貌が判明するまでには
 三十年以上を要する結果となりました。
  昭和三十五年に、元海軍参謀の安延多計夫(海兵五十一期)が、
 進駐軍勤務中に得た米海軍情報を参考に「ああ神風特攻隊」を著し
 て、その壁を破りますが、護衛空母艦隊を四群とするなど、まだ情
 報は充分ではありませんでした。
  ほぼ正確な情報が得られるのは、おそらく、昭和五十七年に邦訳
 されたデニス・ウオーナー、ペギー・ウオーナー共著の「ドキュメ
 ント神風」―妹尾作太男(海兵七十四期)訳―以降と思われます。
                              (下に続く)

  これによって、菊水隊、敷島隊の戦果が日本側発表とほとんど変
 わらないのが確認されます。
  そればかりか、十月二十九日の正規空母イントレピッド(三万八
 千トン)、十月三十日のフランクリン(三万トン)、ペロー・ウッド
 (一万一千トン)など、日本側では確認しきれなかった正規空母
 艦隊への戦果が明らかになりました。
  現在では、フランクリンは大破して艦載機三十三機を破壊され、
 修理のため翌年三月まで戦線を離脱したことが分かっています。
  ペロー・ウッドの戦線復帰は翌年一月二十九日。戦後の長い間、
 特攻隊が戦果をあげたのは護衛空母だけという根拠のない俗論も、
 淡雪のごとく消え去ってしまいました。
 (あの伊藤正徳が特攻隊について、成果は沖縄戦からと誤断したの
 は、敷島隊などの戦果についての不信―大本営発表への不信と、彼
 の時代の米側情報の不足が原因と判断できます)


  最も根強くかつ悪質な偏りは、アメリカから発信され、日本で意
 図的に拡大解釈された第三のルートに見られます。
  このルートは実に巧妙複雑で、まず米海軍のキンケード司令官が
 彼の艦隊が窮地に陥ったのはハルゼーの責任と非難し、自分の艦隊
 の戦力の低下が著しく、もし栗田艦隊が突入してきたら危うかった
 と強調して始まります。(これは事実でないことがほぼ確実となって
 います)。
                              (下に続く)

  次いで、ハルゼーがそれに反論、防衛責任はキンケードにあり、
 自艦隊は小沢機動部隊を撃滅したことで責任を果たしていると主張
 しました。
  一九六二年に原文が発刊されたニミッツ提督の「太平洋海戦史」
 は、両者に傷をつけず(かつ米海軍の栄光を高め)、論争に終止符
 を打つべく、巧妙な叙述トリックを用いました。


  彼の著書によれば、C・スプレイグの艦隊は、劣勢の駆逐艦隊の
 英雄的敢闘によって、圧倒的優勢の栗田艦隊の猛攻に耐え、無事脱
 出に成功し、ハルゼーは、日本の主力空母四隻を全滅させ、米海軍
 は大勝利を収めたという所で、一つの章を終わります。


  そこでは、"カミカゼ"は登場せず、したがってC・スプレイグの
 艦隊が壊滅した事実は覆い隠されてしまいました。
  ニミッツにとって最善のこの処理は、しかし、日本の栗田艦隊に
 は過酷な、多くの日本人には好都合な波紋をもたらします。
  旧日本海軍出身者の多くは、もし栗田艦隊が突入していたら、米
 輸送船団の何十隻かが炎上・沈没し、マッカーサーは周章狼狽して
 本国に逃げ帰ると夢想、夢の中で溜飲を下げることになります。


  一方、特攻隊を認めたくない人たちは、栗田艦隊と切り離すこと
 で、安心して感情論・情緒論の世界だけで議論できたのです。
                              (下に続く)

  この種の人たちの一例として、現代史研究者のH・M氏の「特攻
 と日本人」という著書を見ると、何よりも唖然とするのは、すでに
 充分な資料が提供されているにも関わらず、問題の核心である栗田
 艦隊についての言及が皆無なことです。ニミッツのトリックの巧妙
 さが、改めて想起されます。
  H・M氏に限らず、特攻を論ずる人たちの軍事知識の乏しさは問
 題があります。たとえば、ミッドウェー海戦で優秀なパイロットを
 三千人近く失っている、などの記述は、思い違いで済むミスではあ
 りません。失った航空機の機数は二八五機。どうして三千人のパイ
 ロットが戦死するのでしょうか。これは根幹的な知識の問題です。


  もう一人。開業医で海軍研究家のM・Fという人物がいます。
  この人によると、栗田艦隊は予定どおり全滅してもレイテ湾に突
 入すべきであり、特攻隊は空しく死んでいったのだから、命令者は
 殺人罪というのです。


  なぜ栗田艦隊一万数千に全滅命令をだすのが是で、特攻隊に対し
 ては否なのか、本人がその矛盾にまったく気付いていないのが奇妙
 ですが、実は多くの議論がそれに近い主張をしているのです。


  特攻隊員は、だれに命令されたからではなく、一人一人、自らの
 判断と意志で、自分たちの行動によって栗田艦隊が救われ、戦局が
 転換できると確信して出撃し、そして実現したのです。
                            

日本史随想目次に戻る
トップページに戻る