「神風特別攻撃隊」  結成まで、その(三)


 一九二二年のワシントン条約は、わが連合艦隊に過酷な現実を突
きつけました。
 主力艦比率で、米英それぞれ五に対して日本の三というのは、米
英を一体と考えれば、十対三であって、戦う以前に勝敗は決まって
いるようなものです。
 このあと、海軍の米内(よない)光正、山本五十六(いそろく)、
井上成美らが、強硬に対米英戦に反対したのは、むしろ当然の帰結
というべきでしょう。


 ただ彼らが単純な平和主義者であったとする説は誤りです。
 彼らは、長期の海外駐在経験があり、その後もしばしば海外訪問
を繰り返し、米英の軍事力・経済力の強大さを熟知し、これが対米
英戦回避の基本の論拠となるのですが、その一方で、回避の難しさ
もまた、正確に予見していたのです。


 戦後、一部の人たちにより、海軍が徹底的に戦争反対を貫いたら
戦争が回避できたかもしれないという主張がなされました。
 これは、海軍に対し、国家の政策決定への介入を積極的に勧める
という不謹慎な発言というだけでなく、当時の国際情勢に対する認
識不足を露呈した発言でもあります。       (下に続く)

  当時の世界は、現在とは全く違った勢力分布を示していました。
  第二次世界大戦以前の世界地図によれば、世界は、欧米列強諸国
 の植民地によって分割支配されており、完全独立国と言えるのは、
 アフリカではエチオピア一国だけ、アジアではわが日本とタイ国だ
 けという惨状です。

  欧米列強は、これら植民地から食糧、工業原料などを輸入し、本
 国からは工業製品を売りつけて、膨大な富を独占していました。
  人種的にみれば、白人諸国による有色人種支配の構図です。
  彼らにとっては、有色人種である日本の台頭は、その構図を根底
 から覆しかねない動きです。彼らがそう簡単にそのおいしいご馳走
 を手放すはずはなく、世界的規模で起こった反日、排日運動には、
 こういう根の深い、きびしい背景があったのです。


  サイレントネービーの中で、この事実を主張した一人に、市丸利
 之助(りのすけ)という海軍少将がおります(海兵四十一期)。硫
 黄島で玉砕し、日本でよりもアメリカで知られた提督です。
  硫黄島は東西八キロ、南北三・二キロ、品川区ほどの小孤島。
  しかしその位置が重要でした。
  サイパンなどに配置され、日本本土を空襲する大型爆撃機の緊急
 着陸基地として、また航続距離の短い戦闘機の発進基地として、絶
 好の位置にあります。
  ここを攻略するため米軍は、戦艦などの艦砲射撃、空母艦載機と
 サイパン島からの爆撃機の空爆で、全島を徹底的に破壊し、海兵隊
 延べ七万五千人を上陸させます。上陸日は一九四五年二月十九日。
                             (下に続く)

  片や日本軍は、海軍七千人を含む二万一千人が、地下十メートル
 総延長二十キロ以上の地下陣地で対抗、当初五日程度で占領可能と
 豪語していた米軍は、三月二十六日の制圧までに三十六日を要し、
 人的損害も死傷二万四千人と日本軍を上回り、実質上の敗北として
 司令官が更迭されたほどの激戦となりました。


  市丸少将は、この三月二十六日の最後の玉砕攻撃に参加して戦死
 しますが、その遺体からルーズベルト大統領宛の日英両文の遺書が
 発見され、米軍を驚かせ、従軍記者が直ちに本国に打電します。
  その遺書で彼が強調したのは、白人諸国が東洋から貪欲に搾取し
 ながら、これに抵抗する日本を(石油や鉄鋼材料などの輸出禁止に
 よって)追い詰めたのは不当である、ということでした。
  残念なことに、当時ルーズベルトはすでに病床にあり、間もなく
 死亡したため、遺書が届くことはなかったものの、戦後、あるベス
 トセラー作家の著書で引用されて有名になります。


  それらの影響もあり、滅多に自国の非を認めないアメリカでも、
 開戦までの過程について、批判や反省の議論が散見されるようにな
 ってきます。
  ヒトラーの猛攻に苦しむ旧ソ連が、アメリカの参戦を促すため、
 国務省に協力者を潜入させたなどの事実が暴露され、さらに、マリ
 アナ沖海戦で息の根を止めたはずの日本軍が、”カミカゼ”部隊の
 猛襲や硫黄島での死闘などで、信じがたい抵抗を見せたことによっ
 て、ようやく自分たちが日本を窮地に追い込んだ状況を理解するに
 至ったのです。
                               (下に続く)

  こうして日本海軍は、開戦以前から、圧倒的な米英海軍に対抗す
 る戦略を模索し、その一つとして特殊潜航艇の発想が生まれ、それ
 なりの戦果があったにもかかわらず、これを航空戦に適用するまで
 にはなお長い時間がかかっています。
  これは、海軍には本来、玉砕思想が馴染まない事情があったから
 です。
  海軍の艦艇の建造には、莫大な費用と長期の建造期間が必要です
 し、また、艦艇の運航、火砲の扱い、航空機操縦などには高度の技
 術を要し、要員の教育・補充は容易ではないからでもあります。
  この方針に決定的な転換をもたらしたのは、皮肉にもハルゼーの
 作戦自身にありました。


  ハルゼーは、マリアナ沖海戦の大勝のあと、圧倒的な戦力差を利
 用して、日本の航空部隊の殲滅作戦を開始します。
  フィリピン内はもちろん、台湾、沖縄方面のすべての日本側航空
 基地を間断なく空襲し、空中と飛行場内を問わず、片端から日本機
 を破壊し、搭乗員を倒してゆきます。
  昭和十九年の一月から十月までの間に、日本の搭乗員の戦死者は
 五、二○○人を超えており、これは総人数の四二%に達していて、
 実質上全滅状態の部隊も続出してきました。


  連合艦隊司令部は、反撃の方法を模索します。
  まず反跳攻撃という方法が試されます。低空で敵艦に迫り、接近
 したら爆弾を海面にたたきつけ、爆弾は海面上を跳ねて敵艦の舷側
 に命中、機はそのまま敵艦を越えるという戦術です。
                               (下に続く)

  試してみるまでもなく、高度の熟練と偶然に左右される戦術で、
 間もなく却下される結果となりました。


  次の温存作戦も失敗することになります。
  少数で反撃しても返り討ちとなるだけだから、戦力を蓄えて反撃
 しようというのでしたが、ハルゼーのほうが上手で、蓄える前に襲
 撃され、空しく犠牲を増やす結果となったのです。
  戦士にとって、空しい死ほど耐えられないものはありません。
  もともと飛行機乗りを志願したときから、彼らは戦死は覚悟して
 います。現に、同期の仲間のほとんどを失って残された者は、次は
 当然自分の番と受け止めています。
  最も我慢できないのは、敵艦に一指も触れることなく撃墜された
 り、陸上で空襲を受けて「徒死」することです。
  その徒死が続出し、ついに一航艦は四十機を残すのみとなったの
 です。


  昭和十九年十月二十日。ブルネイに集結した栗田艦隊は、翌々日
 には一機の護衛戦闘機もないまま、米軍潜水艦と機動部隊艦載機の
 待ち受ける死の海に突入の予定です。わが航空部隊が手をこまねい
 て傍観しているならば、おそらく栗田艦隊は全滅するでしょう。
  もはや一刻の猶予も許されません。大西滝次郎中将に決断の時が
 迫っていたのです。

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