「神風特別攻撃隊」  結成まで、その(二)


 ”カミカゼ”については、現在まで多くの研究がなされ、関連著
書も多数あります。
  ところが、そのうち終戦直後から約二十年間のものは、部分的な
描写は別として、歴史資料としての価値が大幅に低下してしまって
います。
 これは、戦中・戦後にわたり、米軍が徹底的に情報秘匿をしたた
めで、あの伊藤正徳氏でさえ、終始フィリピン沖海戦での特攻隊に
ほとんど戦果がなかったとしており、また彼の参謀長の小柳少将も
戦後十一年目に発刊された彼の著書では、特攻隊の戦果は記述して
いながら、それが自分たちが奇襲したC.スプレイグ艦隊とは全く
気づいていない有り様です。
 この間に刷り込まれた多くの虚報や誤解が、思い込みや歪曲によ
る新たな誤解を生み、現在も根強く残っております。


 たとえば犠牲の割りに効果が少なく、成功率が二%程度であった
などは、全くの虚報でありながら、今でも散見される説です。
  昭和十九年十月以来、終戦までの間の特攻隊戦死者総数は、海軍 
二、五二五名、陸軍一、三八七名、合計三、九一二名。
  大部分が搭乗員一名の戦闘機であることを前提にすると、機数で
は約三、〇〇〇機。そのうち敵艦に到達前に撃墜されたり、故障離脱
する機を考慮すれば、実際に攻撃参加できた特攻機は多く見ても全
体のおよそ半数の一、五○○機程度でしょう。    (下に続く)

  これに対して、連合軍艦艇の損害は、撃沈・撃破数が約四三〇隻
と算定されており、成功率は二八%近くなります。
 実は二%という数字は、米軍兵士の動揺を抑えるためにハルゼー
やミッチャーなどの司令官が強調した数字と一致しており、日本側
の論者がそれをそのまま引用していたものだったのです。


  本質に属する部分でも決定的な誤解が残っています。
  多くの著書では、今もなお、特攻作戦がフィリピン沖海戦に際し
案出された窮余の一策として議論を進めております。
  このため、起案者が誰であったかなどの犯人探し(?)に論点が
狭められ、記述も情緒先行となり、最も重要な歴史的意義の冷静な
検証がほぼ空白のまま残されています。         


    これでは、開戦と同時に、機動部隊による攻撃と並行して行われ
 た特殊潜航艇による攻撃の意義は宙に浮き、もちろん翌年六月に決
 行されたシドニー、マダガスカル両基地への同じ特殊潜航艇による
 水中”カミカゼ”攻撃の衝撃も歴史から消え去ることになります。


  この特殊潜航艇というのは、乗員二名の超小型潜水艦であって、
 敵の根拠地である湾内深く進入し、敵艦に魚雷を発射するという兵
 器で、体当たりでないにしても、生きて帰ることなど全く想定不可
 能な特攻兵器に違いはありません。
                         (下に続く)

   立案者の一人、松尾敬宇大尉(海兵六十六期、戦死後中佐)は、
 緒戦の真珠湾攻撃隊の選に洩れたのち、自ら志願してシドニー湾攻
 撃隊を結成、昭和十七年六月一日未明、中馬大尉(海兵六十六期)、
 伴中尉(海兵六十八期)の二艇ととともに、シドニー湾内の豪州海軍
 軍港に突入、補給艦カタバルに魚雷を命中させ、二十一名の戦死者
 を出す戦果を挙げました。
  豪州海軍は直ちに特殊潜航艇の捜索を行い、うち二隻を海底に発
 見、松尾大尉以下四名の戦死を確認、遺体を収容します。
  松尾大尉は部下の都竹兵曹と相擁し、お互いに拳銃で頭を撃って
 自決していたとの記録があります。大尉の享年二十四才。
  彼は、出撃に先立つ三月に父より故郷熊本に因んだ菊地の千本槍
 と、菊地神社の御守りを受け、五月二十七日には父宛の遺書をした
 ためています。すべて覚悟の上の行動でした。


  注目すべきは、その後の豪州海軍の対応です。
  六月九日、シドニー軍港司令官グルード少将は、自軍戦死者とと
 もに松尾大尉ら四名の遺体も正式な海軍葬を以て弔い、その武勲を
 讃えております。
  豪州国内から批判の声が上がるのは当然でした。
  元来豪州は、白豪主義を唱えている人種差別意識の強い国です。
 しかも自国の兵が多数戦死しているのですから、少将の置かれた立
 場にはきびしいものがありました。
                          (下に続く)

  しかし彼は、次の要旨の声明を発表して批判を退けます。
 「彼らの勇気は、国境を越えたものである。これらの勇士は最
 高の愛国者である。(批判する)あなたがた国民にこの千分の一の
 覚悟があるのか」と。                
  この激しい声明には、平時には無視していながら、一旦戦時とな
 ると、手のひらを返すように、生命の危機を顧みない勇気を自分た
 ちに求める国民への痛烈な批判が込められているようです。
  同時に、この日本海軍の勇者に対する称賛が人間的共感を生み、
 やがて彼らも意識しないうちに、白豪主義という巨大な氷壁が音も
 なく崩壊の兆しを見せはじめるのです。


  戦後、オーストラリア政府は、首都キャンベラや軍港のガーデン
 アイランドに戦争記念館をつくり、その中に、豪州軍戦死者慰霊碑
 と並べて、特殊潜航艇隊員の遺品を展示し、「この勇気を身よ」と
 いう説明まで添えております。
  ガーデンアイランド軍港の場合、特殊潜航艇の実物指令塔、縮尺
 模型などが、極めて大切に復元保存されています。


  昭和四十年六月、記念館館長のマックグレース夫妻が熊本の松尾
 家を訪問し、松尾中佐の御母堂に対し、「豪州全国民が松尾中佐を
 尊敬している」旨をとくに伝えて、松尾家の家族を感激させます。
                               (下に続く)

  交流はなおも続き、昭和四十三年四月、八十三才の御母堂は、シ
 ドニーに旅立ち、松尾中佐の自決した海に自宅から持参した花を捧
 げ、三首の短歌を詠みます。その一首。


  みんなみの 勇士の霊に捧げむと
          心をこめし 故郷の花


  オーストラリア滞在中、御母堂は最大級の歓迎を受け、同行した
 家族のたっての要望により、かつて姉が贈った千人針の遺品の返還
 が特別の配慮で認められることになりました。異例中の異例の扱い
 でした。


  ところで、開戦以来六か月もたたないこの時期、なぜ連合艦隊が
 豪州海軍を驚倒させるような非常手段を決行したのでしょうか。
  ミッドウェー戦に先立つこと三日。まだ押せ押せムードに国中が
 湧いている時期です。
  この根底にあるのは、開戦から遠く遡る昭和初期以降、連合艦隊
 を覆っていた強い危機感であります。

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