『フィリピン沖海戦』    栗田艦隊と神風特別攻撃隊


 終戦間もないころ、人々は食料をもとめてさまよう一方で、精神
的な飢えを満たすために粗末な紙の印刷物を争って読みました。
 その中に、栗田艦隊論争というのがあって、一時は多くの論者を
巻き込み、華々しい論陣が張られたものです。
 その火付け役は、海軍記者として高名な伊藤正徳(まさのり)氏
で、氏は、もともと日本海軍についての造詣が深く、また栗田艦隊
の司令長官である栗田中将とも旧知の仲であっただけに、その彼が
栗田中将を糾弾する形となったのが、論争を一段と熱くしました。


 栗田艦隊論争の舞台となったのは、フィリピン沖です。
 フィリピンは、大小七千余りの島々からなる群島国家。一九四四
年十月二十三日から二十六日までの四日間、この周辺の海上で、日
米海軍の主力部隊の決戦が展開されました。
 時にレイテ沖海戦と呼ばれることがあるのは、その一局面を意味
しており、総称としては適切ではありません。むしろ誤解を招きや
すい呼称ですので、今後は使用を避けることにします。
                          (下に続く)

  伊藤氏の論旨は、この海戦において、日本側が小沢機動部隊を囮
 (おとり)とする奇策を案出し、米軍の主力機動部隊をはるか北方
 に誘い出し、米軍上陸地のレイテ湾ががら空きとなったのに、栗田
 艦隊が突入を回避して反転退避したのを、重大な逸機としたもので
 す。その上で氏は、隠棲中の栗田氏にも会って、「もしかしたら疲
 労によって判断を誤ったかもしれない」との発言を得たと断言し、
 これがのちの論戦に大きな影響を与えることになりました。


  その後、栗田艦隊の参謀長小柳少将が、戦闘詳細を著書にしたこ
 とで、栗田艦隊の置かれた状況が極めて厳しいものであったのが明
 らかになり、同情論も現れ、さらに一部の論者の分析によって、レ
 イテ湾突入が危険な賭けであった可能性も指摘されましたが(佐藤
 和正 レイテ沖海戦)、肝心の栗田中将が一切の公的発言を拒んだ
 ために、伊藤氏の結論がそのまま残り、多くの辞典などもそれを採
 用し、ほぼ定説となっているのが現状です。
    しかし、フィリピン沖海戦のあと、海軍兵学校校長に就任した栗
 田長官は、戦後、何人かの生徒たちと親交を続けていました。
  その中の一人、七十八期六○二分隊の大岡次郎氏は、同期の機関
 紙「針尾」に投稿し、平成五年に発行された「針尾の島の若桜」
 (非売品)にも再録されている記事で、この疲労説をはっきりと否
 定しております。
                           (下に続く)

  針尾というのは、九州の大村湾沿いの地に在り、戦後は観光施設
 が建設されました。戦時中はここに、正式名海軍兵学校予科が置か
 れ、約四千人の少年が学んでいました。これが七十八期生です。
  専任の校長は置かれず、栗田校長が本科と兼任しました。この年
 には、七十六期、七十七期の本科もそれぞれ四千人近くを採用し、
 江田島だけでは収容できず、大原、岩国などに分校が設けられ、合
 計して一万二千人近い若者が集められたわけです。
  このことが、海軍による人材独占説や、当時の海軍次官井上成美
 (しげよし)らによる戦後の日本再建を目指した人材隠し説の根拠
 となります。この点に関してはあとで再説の予定です。


   その大岡氏の投稿記事によれば、戦後二十五年目に当時八十才の
 栗田氏と会ったとき、ウィスキーグラスを片手にしたこの元海軍中
 将は元気いっぱい、「戦闘中に疲れることは決してない」と、伊藤
 正徳氏の所論を明確に否定し、しかも、最善を尽くした達成感さえ
 窺うことができたとのことです。
  これが「沈黙の提督」の唯一の発言記録です。私たちはその発言
 を真摯に受け止め、そこを出発点に正しい歴史を見出さなければな
 らないのです。
  この過程で、私たちは、伊藤氏を始めとする多くの人たちの思い
 込みや思い入れが、真実を歪めてしまったことを知ります。
                           (下に続く)
   
  一方、神風(しんぷう)特別攻撃隊、通称かみかぜ特攻隊の場合
 は別の道を歩みました。
  戦時中は英雄として崇められた特攻隊の人々が、戦後は一転、い
 われのない批判の対象となったのは周知のとおりです。
  これには、カミカゼによる被害の大きさを極力隠蔽しようとした
 連合国側の意図が大きく関わっていたのですが、日本側の多数もま
 たその意図に沿ったような発言を繰り返していました。
  ところが、その間に元となる連合国側の論調が変化し始め、戦後
 二十年を経過したあたりから、資料の再収集、再検討、歴史的な意
 義などの見直しが並行的に進み、多分にその影響もあって、日本側
 でも冷静な分析が始まります。(森史郎、金子敏夫などの著書)
  さらに、特攻隊の人々の遺書が広く公開され、また一人一人の生
 前の姿が明らかになるにつれ、いかに彼らがかつて連合国側が誹謗
 したような「狂気」や「野蛮」とは異質の魂を持った人たちである
 かということも、鮮明に浮かび上がってくるのでした。
  次回からは三回に分けて、この二つを検証いたしましょう。
日本史随想目次に戻る
トップページに戻る