『アーサー王物語、米英騎士道の源流』――ティータイムに代えて
               追録篇その(九)
   付――嫌日の米海軍提督を一夜で変えた帝国ホテルの夕べ


 二十世紀において二度の大戦に勝ち抜き、世界の覇者となったア
メリカが、戦後各地の紛争に介入する度、歴代大統領は誇りを以て
演説します。「アメリカは戦いによって日本を破ったが、その日本
は軍国主義を捨てて模範的民主主義の国家となり、アメリカの最も
良き同盟国となった。しかも経済的にも世界有数の繁栄した国家と
なっている。あなた方もこれを見習うべきである」と。


 この発言は真実を語っており、誰も否定することはできません。
 それにもかかわらず、未だに世界に紛争は絶えず、日本に追随す
る国家は現れていないのです。
 どこかに本質的な見落としが在るとしか考えられません。


 その理由の一つとして、私たちは、すでに戦前と戦中において、
日本は、工業技術の面で急速な近代化を遂げていたことを挙げまし
た。
 また精神面を見ると、武士道と騎士道は、その倫理性の本質にお
いて極めて近似しており、あの苛烈な戦場でも多くの理解と共感と
尊敬が生まれていたのを知ることができました。
 戦後の日米両国の強固な同盟関係を論ずる場合、この本質を無視
して、単なる文書による条約の成果と見なすのは、歴史観としては
浅薄であり、同盟関係自身の評価を誤る原因ともなるのです。
                          (下に続く)

  ところが意外なことに、日本では欧米騎士道についての研究はこ
 れまでほとんど行われておりません。
  たとえば或る図書館で検索した結果では、武士道に関する参考文
 献数の七四に対し、騎士道は僅か三にすぎません。
  その一方で、試みにアーサー王を検索しますと、意外にも四七も
 の文献が確認されました。


  日本人は、騎士道を単なる中世の王や騎士の伝説や物語としてし
 か捉えておらず、武士道に対するような倫理性にはほとんど無関心
 であるということが分かります。
  これでは同盟関係だけではなく、政治や経済、文化など、多くの
 分野での理解も困難というしかありません。
  実は、欧米では、私たち日本人が考えているよりも、はるかに深
 く広く、騎士道は日常世界の中に浸透しているのです。


  シヴァルリィ(騎士道、chivalry)は、十三世紀から十五世紀ころ
 に確立し、その後、現在でも広く使用されている言葉であって、同じ
 系列に属するノブレス・オブリージ(noblesse oblige)もまた、高貴
 な地位に在る人にはそれにふさわしい道徳上の義務があるという意
 味で、最近は日本でもしばしば使われ始めているフランス起源 の言
  葉です。


  英国のエリザベス女王の夫であるエディンバラ公も、皇太子チャ
 ールズも海軍に籍を置き、チャールズの長男・次男の二人の皇子は
 共に陸軍に入隊し、ノブレスとしての義務を果たしております。
                           (下に続く)

  米国でも、アイゼンハウアー、ケネディ、ブッシュ(父)など、
 軍歴のある大統領の例が多いばかりか、もし故意の兵役忌避の疑惑
 でもあると、たちまち政治家として失格しかねない風土があり、こ
 の点は日本人の多くの想像を越えるものがあります。


  このように、欧米民主主義国家で、日本以上に厳格な義務の感覚
 が存在しているのは、彼らが歴史の経験から、民衆に自由と平等を
 与えるだけでは社会秩序が維持できないのを熟知しており、そのた
 めに指導層が率先して自らに厳しい規範を課しているからです。
  こうして、民衆間ではキリスト教的な戒律で秩序が維持される一
 方、指導層では騎士道が誕生し、やがてその両者が一体化して現在
 の欧米社会の基底にある秩序が成立したものと考えられます。


  日本は、戦後に民主主義を導入した際に、この宗教的戒律も騎士
 道も全く無視してきましたが、これは大きな誤ちとなるのです。
  モラルの崩壊とか、社会の箍(たが)が緩んでいるとか、現象面
 での批判は多く聞かれますが、どれも単なる嘆き節であって、的確
 な処方箋をまだ誰も提示できていないのは当然と言えます。
  何しろ騎士道そのものが研究されていませんし、中には騎士道と
 軍国主義を混同したり、戒律や義務という概念そのものを理解でき
 ない人も多いのが実情です。


  改めて騎士道を学ぶに当たって、比較的日本人にも受入れやすい
 アーサー王物語を取り上げるのは、この趣旨によるものです。
                            (下に続く)

    アーサー王物語


  数多い騎士物語の中で、アーサー王物語が傑出しているのは、そ
 れが多くの歴史的事実と伝承を網羅的に採り入れ、分かり易い物語
 化し、結果として理想の人間像を提示しているからです。


  物語として完成したのは、ほぼ十五世紀。征服者であるサクソン
 人に抵抗したブリテンの先住民のケルト族の英雄物語としてです。
  背景の時代は六世紀のころ。歴史の上では、シーザーの遠征以降
 支配者であったローマ軍が撤退したあと、本来の住民であったケル
 ト人と、大陸から新たに進出してきたゲルマン系のサクソン人の抗
 争の時代です。


  結局ケルト人は敗れて、ウェールズ、アイルランド、フランスの
 ブルターニュなどに散り散りに追われるのですが、物語でのアーサ
 ー王はサクソン軍を破り、最後にはローマにまで遠征するというふ
 うに脚色されています。明らかな歴史の歪曲であって、そのことに
 ついては欧米人ならば誰でも知っています。


  それでも人々はこの脚色されたアーサー王物語を、率直に受入れ
 て語り継いできました。
  史実の当否ではなく、そこに描かれた騎士たちの雄々しく気高い
 立ち居振る舞いに魅了されたからであって、ついには聖杯・聖剣伝
 説を織り込み、キリスト教伝説と合体させてしまったのです。
                          (下に続く)

  いわばアーサー王物語は、アーサー王とその周辺の騎士たち(円
 卓の騎士と呼ばれました)が演じた理想の人間物語でした。
  円卓の騎士の筆頭とされるランスロット(仏語でランスロ)は、
 忠誠と武勇と謙譲と、そして変わらない愛によって、人々の尊敬の
 対象となり、長く騎士像の典型とされてきました。


  ランスロットと並び立つガウェイン(仏語でゴーヴァン)は、激
 情の人物であって、かつて自分の猟犬を殺した相手と戦い、その時
 誤って相手側の貴婦人も同時に倒してしまい、それを悔いて、生涯
 女性の守護者となる決意をし、女性守護神の名を残しました。


  「獅子の騎士」の異名のつけられたユーウェン(仏語イヴァン)
 は、数々の試練に耐えて自己完成の旅を続ける騎士として、獅子を
 連れて怪物兄弟を倒し、哀れなお針子を解放し、人間的な成長を遂
 げた末に、かねてから愛を抱いていた女性と結ばれます。
  それはあらゆる時代に共通する、一人の青年の成長物語でした。


  一度はアーサー王と戦って勝利したこともあるペリノア王は、や
 がてアーサー王に仕えて深い信頼を得たばかりか、その子パーシバ
 ルは聖杯の発見に成功して聖杯王となり、さらに孫のローエングリ
 ンは白鳥の騎士となって、進んで危機に陥った人々を助けます。


  戦前・戦中の日本の子供たちが、源義経や楠木正成、真田幸村な
 どの武将に英雄の姿をみたように、欧米の子たちもアーサー王と円
 卓の騎士たちに憧れながら育ってきたのです。  (下に続く)

  これから述べる日米海軍の四人の提督によって演じられた小さな
 ドラマは、こうして育ち、一時は激しく戦った敵味方の提督たちが
 どのようにして和解に到達し、ついに同盟国という一つの円卓を囲
 むまでに至ったかという、武士道と騎士道の物語です。


 『米海軍アーリー・バーク少将と日本海軍三人の提督、帝国ホテル
 の晩餐』――騎士道はいかにして武士道を理解したか


  米海軍にアーリー・バークという猛将がいました。
  彼は戦中の一九四三年二月、駆逐艦隊の司令に任ぜられ、南太平
 洋ソロモン方面で日本海軍と激しく戦ってきました。
  彼の艦隊は退くことを知らず、常に「進め、進め」というバーク
 の号令下、日本艦隊に立ち向かい、何隻もの巡洋艦・駆逐艦を撃沈
 し、その勇名は米海軍内でも評判を呼びました。


  戦時中から日本軍を憎み、敵意を抱き続けていた彼は、戦後の一
 九五〇年九月、米極東軍の参謀副長として東京に赴任します。
  この時、宿舎として帝国ホテルを割当てられたことから、少しづ
 つ彼の日本観が変わってきます。


    海軍出身の作家阿川弘之氏の御子息阿川尚之氏の著書、「海の友
 情」によれば、まずホテルの部屋係の女性が自費で部屋に花を活け
 たのが、彼には予想外であり、その代金を決して受け取らないのが
 彼の心を打ちます。              (下に続く)

  次いで十一月、動乱の朝鮮半島から疲労困憊で帰還した際に、従
 業員一同による温かいもてなしが彼の心のわだかまりを解き、決し
 てチップを受けない従業員のために、ホテル側と交渉して匿名で退
 職金名義の寄付を行うなど、心境と行動に大きな変化がみられるよ
 うになります。


  やがて、彼は、海軍兵学校同期のエディー・ピアス大佐から、彼
 がソロモンで戦った日本海軍の南東方面艦隊司令官の草鹿任一中将
 の消息を聞くことになります。
  ピアス大佐によれば、草鹿任一は生活に困窮し、自分は鉄道工事
 現場で労働し、夫人は街頭で花売りをしてようやく飢えを凌いでい
 るというのです。
  ホテル従業員の温かい処遇によって心の氷の溶けたバーク少将は
 食料品の詰め合わせを作り、匿名で草鹿に届けさせます。
  バークの胸中には、あのチャップリンの不朽の名作「街の灯」の
 貧しい盲目の花売り娘の姿が去来していたのかもしれません。


  数日後、執務中のバークを突然訪ねてきた草鹿は、怒って食料品
 を突き返して言うのです。
 「侮辱するのはよせ。自分は誰の世話にもならない。とくにアメリ
 カ人からは何ももらいたくない」
  記録では、この発言は通訳を介してとなっていますが、ロンドン
 駐在武官の経歴のある草鹿ですから、英語で言った可能性もあり、
 意地で敢えて英語を使わなかったとも考えられ、いずれとも断言は
 できません。                  (下に続く)

  ともかくこの草鹿の毅然とした態度は、却ってバークの琴線に触
 れるものがあったようです。
  十二月二十六日、クリスマスも過ぎ、草鹿の労働の日も終わった
 ころ、バークは草鹿と、富岡定俊、坂野常善の三人の元提督を帝国
 ホテルの晩餐に招きました。


  阿川氏の著書では、なぜこの三人が招かれたのか、その理由につ
 いては言及しておりませんが、三人の経歴を調べると、実に個性的
 な人物が選ばれているのが分かり、改めてバークという人物の非凡
 さを知ることができます。


  草鹿任一はソロモンでの好敵手というだけでなく、本土との交通
 を遮断されたあと、陸軍の今村大将に対して海軍側の最高責任者と
 してラバウル籠城作戦を指揮し、最後は降伏文書に調印した人物。
  四才年下の従弟草鹿龍之介(中将、海兵四十一期)が連合艦隊参
 謀長として名声を博しているのに対し、剛直な草鹿任一は主流を歩
 むことなく、また実戦においても最後はラバウルで空しく終戦を待
 つという恵まれない運命の人でした。海兵は三十七期。あの井上成
 美と同期です。


  富岡定俊少将は海兵四十五期で、三人の中では最年少です。
  父も中将、父の死後男爵を継いでいて、彼自身も海軍大学の首席
 というエリートです。
  卒業後は国際連盟海軍代表部に属し、フランスに駐在。その後も
 軍令部や艦隊参謀などを歴任していました。    (下に続く)

  彼が最も活躍したのは終戦前後であって、源田実大佐が秘密部隊
 を組織して決起を図ったとき、当時軍令部第一部長だった富岡少将
 は、中央の情勢を彼に伝えて、計画を断念させています。
  その後も戦艦ミズーリでの降伏調印式に随員として参加、戦後は
 海軍省、復員省に出仕して、主に資料調査を担当しました。


  坂野常善(つねよし)中将は最年長で、海兵は三十三期。終戦時
 にはすでに六十一才となっています。
  彼は一九二七年から三年間アメリカに駐在し、そのころから対米
 英協調派となっており、そのために陸軍の強硬派と海軍内の主戦派
 の標的とされ、一九三四年に中将に昇進した直後、或る流言によっ
 て坂野は失脚し、予備役に編入されてしまいます。坂野によれば、
 反対派が或る新聞記者を買収しての罠だったようです。


  引退後の十年を無念の思いで過ごした坂野は、昭和二十年三月、
 敗戦の近いことを知って、私家本の手記「大東亜戦争ノ教訓」を著
 しています。
  現在その原本は入手困難ですが、その内容は伝聞として記録され
 ており、日本の敗因を陸軍統制派の軍紀紊乱(びんらん)と、軍人
 の政治関与と断罪するものでした。
  当然、バーク少将はその内容を知っていて招待したものと思われ
 ます。
  三人の招待客は、最初はその目的が分からず、不安と不審で緊張
 していたようです。               (下に続く)

  しかし間もなくウイスキーが回るにつれて、語学が堪能な三人は
 バーク少将が親睦を求めているのを感じ取り、口も軽くなってくる
 のです。
  阿川氏の著書によれば、お互いに「もし作戦が成功していれば、
 貴君はここにいない(戦死している) 」などと際どい応酬もあり、
 最後にはかなりの騒ぎとなった模様です。
  バーク少将が日本を認め、日本側がそれを感知した瞬間でした。
  その後の日米関係の進展を思うと、この夜の晩餐会の意義の大き
 さは計り知れないものがあります。
  バークは積極的に旧日本海軍の要人との接触を進め、その中には
 例の野村吉三郎もあり、野村はバークが最も敬愛する旧海軍軍人の
 一人となります。


  彼は海上警備隊の誕生に重要な貢献をしたのち、一九五五年に帰
 国、今度は作戦部長に就任して、日本の海上自衛隊からの留学生制
 度を創設し、内田一臣、中村悌次など、やがて海上幕僚長となる人
 材を招くのです。


  内田、中村の二人は、あの米海軍屈指の日本通のジェームズ・ア
 ワーも尊敬した人物で、彼の日本人養子の悌一郎は二人の名を合わ
 せたものです。
  内田は海兵六十三期、中村は六十七期。海兵出身者の幕僚長は七
 十五期の吉田學まで続き、その後ようやく防衛大一期の佐久間一の
 就任によって終わります。           (下に続く)

  これらの旧海軍出身者に対する米軍側の好意、尊敬の原因を見て
 ゆくと、帝国ホテルの晩餐における三人と共通するものがあるのが
 分かります。
  たとえば中村悌次の場合、現場視察に当たって一日に何カ所も回
 って受入れ側を慌てさせたり、自らヘリコプターからのロープ降下
 をしたりして、常在戦場の武士道精神を忘れていません。


  多くを語らず、自らを誇ることなく、失敗を弁解せず、他人を責
 めず、常に与えられた任務の遂行に最善を尽くすという海軍魂も健
 在でした。
  清潔・整頓の精神を重視する一方、不必要な贅沢をせず、その古
 いレインコート姿から、刑事コロンボをもじって、テイジコロンボ
 の異名をつけられるほどであり、要するにサムライだったのです。


  阿川氏は、近年の米海軍と海上自衛隊の関係の希薄化を指摘して
 いますが、その主因は日本側でサムライ精神を発揮する機会が失わ
 れつつあることによると思われます。


  バークは、草鹿ら三人が、窮乏に負けることなく、武人としての
 誇りを失わず、毅然と対応したことに、心の奥底の騎士道精神を揺
 さぶられたのです。
  それが彼の日本に対する破格の厚遇となり、中村たちを育て、そ
 の結果が日米間の関係を緊密なものとしたのです。
  バークが勲一等旭日大綬章を受けたのは当然として、日本側のサ
 ムライたちに正当な評価が与えられていないのは残念なことです。
                         (下に続く)

  よく考えてみれば、アーサー王とケルトの民は、歴史的事実とし
 ては敗者です。
  かつてはヨーロッパの大半を支配して、ローマやギリシャの近く
 まで進出したケルト人は、シーザー時代にはローマに支配され、次
 にサクソン人に追われ、アーサー王時代に一時的に盛り返したもの
 の、彼の死とともに再び歴史から消えてしまいました。


  しかしその精神はアーサー王と円卓の騎士の物語として、欧米人
 の心の中で復活しています。
  民族として見た場合も、ケルトの正統な後継者とされるアイルラ
 ンドは国家として興隆段階に入り、そのアメリカ移民も五千万人近
 い大勢力となっています。


  日本の武士道もまた、明治時代に新渡戸稲造によって世界に紹介
 されてから国際的に認知された道徳律となり、敗戦後の一時的な逆
 境の時代を乗り越えて、いままた普遍的な価値を再評価されてきて
 います。


  米海軍の騎士たちと、日本海軍のサムライたちは、あの戦いの激
 突で火花を散らしましたが、その火花から生まれたのは憎悪の連鎖
 ではなく、相互理解と尊敬の大輪の花だったのでした。


 (次回からはいよいよ終戦前後の日本海軍に入ります。
 今回のようにあまり有名でない人物も登場しますので、何回にな
 るかまだ不明です。)

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