ティータイム (4)   戦艦大和の真実


 戦艦大和というと、どんなイメージをお持ちですか。
 排水トン数六万九千トン、全長二六三メートル、主砲四十六セン
チ砲九門、世界最大最強の戦艦というのは、かなりの人が知ってい
るはずです。
 また、皮肉屋の傾向のある人は、ピラミッド、万里の長城と並ぶ
三大無用の長物などと切って捨てるでしょうし、中には宇宙戦艦ヤ
マトしか思い浮かばない人もいることでしょう。


 映画などのおかげで、一段と正確な知識を持つ人が増えてきたの
は大変結構なことではあります。
 しかしその反面、昭和二十年四月七日の最後の日の印象が強くな
り、真価が正しく評価されないという問題も生まれてきました。
 「不沈戦艦大和といっても結局は撃沈されたではないか」「四十
六センチの主砲は全く役にたたなかった。最初から航空母艦とすべ
きだった」などの意見がよく聞かれます。
 本当にそうだったのでしょうか。こういう一見もっともらしい見
解にしばしば落とし穴のあるのを、私たちはすでに知っています。
 偏見を捨てて再検証をしてみましょう。
 フィリピン沖海戦についてのこれまでの記述でも、大和はあまり
活躍していないように見えます。どうも米艦を撃沈したのは大和の
四十六センチ砲ではなかったようですし、魚雷を回避するためにし
ばしば米艦隊から逆方向に転回しています。     (下に続く)

    だがその結果、大和は激闘の中で生き残りました。 
  大和の活躍を最も高く評価しているのは、実はその時乗艦してい
 た栗田長官でした。長官は、戦後、後輩の七十八期の大岡次郎氏に
 対しても、「艦長(森下大佐)の操艦技術は抜群であった」という
 趣旨の発言をし、またあの伊藤正徳氏との対談でも、「大和はこの
 出撃中に十九回もの敵艦載機の波状攻撃を受けていて、これは新記
 録だ」といっています。
  大和がブルネイに帰投したとき、爆撃、雷撃による浸水三千トン
 と、バランスを取るための注水二千トン、合わせて五千トンの海水
 を抱え、それでもほとんど速度も落とさず、艦隊旗艦の威容を堂々
 と保っていました。


  これらを念頭に大和の戦いの跡をたどってみると、驚くべき事実
 が判明します。
  十月二十四日、戦艦武蔵が撃沈されたシブヤン海海戦での米軍正
 規機動部隊の猛攻に始まり、二十五日の護衛空母艦隊との決戦、そ
 して二十六日の撤収段階での新手のマッケーン隊を中心とする部隊
 との交戦。実にその三日間に、米機動部隊の全艦載機と大和は戦っ
 たことになります。空母数で約三十、艦載機で千機。それでも大和
 は沈みませんでした。大和はまさしく不沈戦艦でありました。


  この理由を操艦技術だけに求めるのは適切ではありません。
  四十六センチ砲の砲弾に代えて新たに開発された三式弾という巨
 大焼撒弾が、対空武器として威力を発揮したこともあります。
                              (下に続く)

  長門、金剛、榛名などの戦艦部隊、利根以下の重巡部隊が奮戦し
 たことが、大きな力となったのも事実です。
  けれども、やはり戦艦としての造艦技術がそれだけ優れていたと
 いうのが、最大の理由とみるべきでしょう。
  明治維新以来、欧米技術の模倣による近代化を目指した日本は、
 この戦艦大和と、そして零式艦上戦闘機(=零戦またはゼロ戦)に
 よって、初めて欧米を凌駕する独自の近代工業技術を獲得するに至
 りました。決して無用の長物などと簡単に片付けられるものではな
 かったのです。
  この見方の正しいことは、戦後になって証明されます。
  零戦技術者は、自動車や新幹線の開発の中心となり、とくに軽量
 で高効率というその後の日本製品優位の基礎を作りました。
  大和で開花した大型艦船の造艦技術は、大型タンカー建造に応用
 され、一時は世界の受注を独占し、その外貨収入は食料や新鋭機械
 の輸入代金となって日本経済の復興に大きな貢献を果たしました。
  それと対照的なのはアメリカの造船業で、戦時中にリバティ船と
 いう規格船を二千三百隻も大量生産した反動により、すっかり競争
 力を失ってしまいました。
 (そのリバティ船こそ、レイテ湾の米輸送船団の中心であって、も
 し戦艦大和がその何隻かと心中したとすれば、歴史はどんな評価を
 下すのでしょうか。興味深い所があります)


                              (下に続く)

  ここで、歴史を原因・結果の鎖の輪と考えてみましょう。
  大和も零戦も何もかも含めて、戦中のすべてを否定的に見たら、
 戦後の日本の驚異的な経済成長を全く説明できません。
  砂漠の中の不毛の土地に近代文明国家がいきなり誕生するような
 お話は、現実には決して有りえないのです。
  世界第二の経済大国の芽は間違いなく戦時中にありました。
  私たちはその観点で戦艦大和も零戦も、そして戦時中のすべてを
 偏見なく、鎖の輪の一つ一つとして見直さなければなりません。
  そこで結論。戦艦大和は、戦後日本復興の主役の一つとして貢献
 しました。やはり偉大な戦艦だったのです。

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