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 上野


   今度は上野についてです。
 浅草の場合は、まず神社のご神体やお寺の縁起が何やら秘密めい
ていましたが、その点上野は、由来がはっきりしていて、疑問の余
地はありません。
 まず上野という名前は、徳川家康から江戸の造営責任者に選ばれ
た藤堂高虎が、その領地である伊賀上野から取ったもの。
 また、東叡山寛永寺は、西の比叡山延暦寺に対応して創建された
もので、どちらも都の鬼門に当たる地に在り、創建の年の年号を寺
の名とし、宗教的な守り神の役割を与えました。
 しかし、その後は対照的な発展の道を辿っています。
 比叡山があくまでも仏門修行の聖地に徹したのに対し、上野は早
い時期から庶民に門戸を開き、門前町の広小路は江戸の盛り場の一
つ。さらに江戸中期には山の桜並木が一般町民に解放され、現代ま
で桜の名所となっています。
                             (下に続く)

 上野の歴史を語るとき忘れてならないのは、山の麓に広がる不忍
池の存在です。その名が暗示していますように、ここは窮屈な封建
時代の男女がしばしの逢瀬を楽しむ場所としても有名でした。
 江戸川柳の一句。


 ・・・・しのばずの茶屋で忍んだ事をする・・・・


   この流れは明治にも引き継がれ、浅草よりも早く明治九年には上
野一帯が公園に指定され、このとき、現在も残る精養軒と江戸時代
の代表的な料亭の八百善が、公園内に営業を認可されています。


 明治十年には第一回内国勧業博覧会が開催され、百日の開催期間
中に、当時としては驚異的な四十五万人の人を集めたそうです。
 明治十五年には動物園が開園。また、不忍池の周囲を利用しての
第一回競馬が開催されて大盛況だったそうです。


  しかし現在の上野は、軸足を徐々に美術館や博物館などの文化施
 設に移しつつあります。幸いにも、このあたりには寛永寺をはじめ
 寺院が数多く、大規模開発が避けられ、江戸・明治の風趣を色濃く
 残しています。周辺の谷中、根津、千駄木あたりも、いまは谷根千
 (やねせん)と愛称をつけられ、隠れた人気の周遊コースとなって
 きました。その一角には森鴎外の旧宅を保存した都内では珍しい温
 泉ホテルもあります。散歩の後の一汗を流すのに便利です。
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