ティータイム (2)
今回は前回お約束した「海軍による人材隠し」説を具体的にみて
みたいと思います。これは後に述べることとも密接に関わっている
ことが後ほど納得いただけるのではないかと思います。
海軍兵学校の募集人数は一九四三年十二月入校の七十五期から急
増しました。この時の採用人数は約三、五○○名。それ以前の千人
と比べると三倍以上で、江田島本校だけでは収容できず、急遽岩国
分校が設置されました。
とくに注目されるのは、応募者が五万人を越えて、事前の予想を
大きく上回ったことでしょう。空前の人数といえます。
この年日本海軍は、戦局の悪化と人員の消耗に対応するため、全
面的な増員計画を立てていました。たとえば一般大学生を対象とし
た予備学生を六、七○○人、甲種・乙種の飛行予科練習生(通称予
科練)が約三万三千人などです。とくに予科練は兵学校と年代が重
なるため、応募の妨げになると懸念する向きもあったようです。
ところが、翌年度の七十六期、七十七期の同時募集には十万人、
最後の七十八期は七万人が応募し、当局はその処理に苦慮し、結局
は中学校の内申書で、受験者を採用予定者の二倍程度にしぼって採
用試験を行うことにしたほどです。
(下に続く)
ここで確かなことは、まず、当時の少年たち(最年少は十四才)
が、決して強制や割当によるものでなく、自分たちの意志で、これ
だけ多数が海軍兵学校を選択したという事実です。
すでに南方の島々では玉砕が相次ぎ、応募締切りの翌月十月には
第一回の神風特別攻撃隊が発進する時期に、これほど多くの少年た
ちが進んで志望していたのです。
しかし海軍首脳部は、この貴重な人材を、即席に訓練して戦場に
送り込むことを決してしませんでした。七十八期に至っては、ほと
んど軍事教練は行わず、一般教養科目に重点を置いた教育に徹しま
した。
狭い瀬戸にかかる橋をわたり針尾島に到着した生徒たちは、すぐ
に予想外の対応に調子を狂わせられます。
英語の時間、日本語の使用は禁じられました。最新のオーラル・
メソッドという方式であることは、戦後に知ることになります。
八十四ある分隊の分隊付教官は、ほとんどが予備学生から選抜さ
れたそれぞれの分野の専門家で、その中には戦後に出身校に戻って
研究を続け、一家をなした人も稀ではありません。
日本古代史や万葉集の権威となったN教官。第一回の授業で幸田
露伴の短編を情緒豊かに物語り、戦意高揚の講義を期待していた少
年たちを茫然とさせたY教官は、終戦後も国文学を学び、やがて阪
神間の某名門女子大学の学長として八十才を越えるまで、教育界に
身を捧げるに至りました。
(下に続く)
この一般教養重視が、戦時中の、しかも戦局が切迫している中で
も堅持されたのには、井上成美次官が最も重要な役割を演じている
のに、疑問の余地はありません。
氏は、一九四四年の九月まで海軍兵学校校長の任に就き、一部か
ら強硬に就学期間短縮の要求のあったのを、「紳士としての海軍士
官を育てるのに必要な期間を確保すべき」として拒否し続けていま
した。
戦後は横須賀近くの僻地に隠棲し、近所の子供たちに英語を教え
ていた井上成美の所には、やがて後輩たちが時々訪ねてくるように
なり、彼が、戦後も世界に通用する人材教育を目指したという意図
が、一般にも知られるようになってきました。それが「人材隠し」
或いは「人材キープ」と呼ばれるものです。
その意図は果たされたといってよいでしょう。
七十八期には記録魔がいるらしく、先述の「針尾の島の若桜」に
よれば、昭和六十二年には、出身者のうち教職関係者は五百七十人
で、うち東大、京大などの国公立大教授六十三人。医学関係者三百
人など、学問関係の多いのが特色の一つとなっています。
(下に続く)
ついでながら、記録の中で、まったく役に立たないものもありま
した。たとえば食事の献立です。
それによりますと、
六月八日(昼食) 十二立方センチ位の寒天羊羹と枇杷十一個
(ここは茂木枇杷の産地でした)
六月二十二日(夕食) 久し振り乾パン二枚(穴の数は十六個)
(なぜ穴の数が重要なのか、理由は不明)
などなど。
それにしても、敗色濃厚な中で、恵まれた良き環境、良き学校、
良き師でありました。
忘れてならないのは、栗田健男中将がその校長であったというこ
とです。井上成美の理想の実現を託された現場の最高責任者の立場
です。栗田中将のもう一つの面です。
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